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2010年4月

【儚き夢】

宇宙が存在し、太陽系の中に地球と月が存在する。

宇宙は無数に存在するのかもしれないが、「今」の私はただ一つだ。

3次元という立体空間を、素粒子は移動する。そして、時間という概念が、4次元世界を構成する。しかし、この時間という概念における私達の理解は、未だ不十分であるのではないかと思う。一般的には、時間は一定の速度で経過するものとして理解されている。だがしかし、その一般常識というのは、真であるのだろうか。アインシュタインの相対性理論は未だ一般的には理解されていないような気がするのだが、今世紀にはそれ以上の理論が証明されるのではないかという予感がある。

100年に一度の危機と言われるが、「不景気」という言葉は、いつの時代にも常識のように流行する。経済的なイベントというのは、ショック(マイナス)が存在すれば、バブル(プラス)も存在する。即ち、波があるというものだ。経済の根源は、企業と金融である。人が居て、会社という場で働いて、金銭を公平に分配するところに、経済がある。そして、企業は実態であり、金融は仮想現実であるともいえる。仕事の結果により得られるモノとサービスというのは人間の欲を直接的に満たしてくれるが、カネは、それらモノとサービスの代わりに過ぎない。

かつての世界では、モノにしろサービスにしろそれらを享受するには、労働が必要であり、今もそれは変わらない。だがしかし、機械化が進むにつれて、必要な労働人口の占める割合は、全労働可能人口より圧倒的に小さくもなり得る。だがしかし、公平性を保とうとするのであれば、一人当たりの労働時間を減らしてでも全員に仕事が任されるべきである。ところが、現状はどうであろうか。極一部の資本家は大金を蓄え、大部分の人間は低賃金で働かされる。資本家が大金を利用する場は限られており、また所得の乏しい庶民はますます購入を控える。企業の売上高は低下し、当然の如く採用可能人員は低下し、人々は仕事を無くす。

即ち、現代社会は、人口全体から見た経済的循環システムが、一部しか機能していない事になる。稼働率100%は不可能だとしても、今現在の実質的稼働率が10%であったとするのならば、それは果たして深刻な問題ではないのだろうか。仮に稼働率10%であったとしても、金銭を公平に分配するだけであるのならば、方法は存在するが、一人当たりの労働量に不公平が生じるであろう。そこで、これまでは資本主義という考えで、なんとか平等性を保って来たのだが、21世紀に突入し、徐々に無理が生じて来たようである。特に、ここ日本という国おいて、確かに封建社会が古来は続いて来たのだが、それとは異質の欧米型かつ日本独自の資本経済システムは、一見何の問題も無いかと見えて来たのだが、近年になって様々なところで「バグ」が生じている。

左側の共産主義と右側の資本主義。実質的な世界経済は、均衡を保つ為にある程度はバランスを保って内在するが、経済を支える政府が、現在一部或いは全体的に麻痺している事もあり、各企業の連携は偏りがあり、各企業は方向性が見えないまま独走している。

日本では自殺・殺人が消滅せず、生活保護という制度はあっても、適度に働き適度に休息するという極自然な生活スタイルの存続が、一部では危うくなっている。企業は競争の為にと製品の価格を下げ続けた結果、従業員に十分な給料を支払う事すらできなくなってしまった。大量生産大量消費というスタイルは21世紀の個人・環境配慮型社会では通用しなくなって来た為、利益率を上げるにはますます創意工夫が必要とされる。だが、今、各企業の努力だけでは、どうにもならない時が来た。確かに統一政府は、支配的に全てを管理していては、それは国家主義的であり、民主主義に反するから、様々な問題が起こるであろう。だが、完全な民主主義というのは、各個人の意思に全てを委ねた社会であるからして、無数の個人及びコミュニティが存在したとしても、もはや国として存在はなくなる。もし、日本を国として存続させる必要があるのであれば、政府は、夜警国家的になる必要はないが、全国民をサポートするという意味で、必要な部分では融通性を伴いかつ公平平等な統率が必要であると考える。その一つとして、経済のうち、金融システムにおいて、全企業と連携したフィードバックシステムの構築である。

また、物価・給料・税金・年金・保険及び貯蓄、さらに日本銀行券発券といったあらゆる金融において、監視・管理はほどほどにしなくてはならないが、国と全個人が一体となった、永続的に循環可能なシステムの再構築が必要となる。なぜその必要があるのかと言えば、一つに、現在の政府の尋常ではない赤字を見るだけでも、確実ではなかろうか。

かつて、世界はどの国においても、農・工・商はバランス良く成立していた。しかし、現代は、偏りがある。グローバルな世界であり、各国の役割というのはあるのだろうが、それにしても、均衡が保たれているとは言い難い。しかし、人一人には役割があり、運も存在する。世界は確かにマルチプレイヤーも必要としているが、根本的に何か一つに精通する事を求めている事に変わりはない。例えて言うならば、趣味は多芸で構わないが、本職は一つに極めるべきなのであろう。しかし、それでも環境が変化した時、その時には臨機応変に切り替えればいいのだと思う。

未来に過去に、好きな時代に一瞬で移動できる。人は何度も生まれ変わる。そんな時代もいつか来るのかもしれないが、今やるべき事は、何であろうか。

………。

夢。これには二つの意味がある。一つに、自分が欲して望むもの。もう一つに、儚い幻想。この両者が合わさった時、過去から未来へと現在進行中の、現実なのかもしれない。

ここで一つ疑問が生じる。宇宙には始まりと終わりがあるのか。それともループしているのかという問題だ。そして、そういった運命は、予め決まっているのか、それとも可変なのかという事である。

現代は科学の世紀なのかもしれない。さて、魔法の世界は存在するのだろうか。

歴史は嘘を語る事もあれば真実も語る。そして、嘘と真実は逆転する可能性もあるのではないだろうか。

≪毎日がリセットされ、またここから始まる。≫

。。。

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Inspiration

モーツァルトの神聖さは、遺伝する。

音楽は神に通じる、即ち魂に直結するものなのかもしれないが、私の理解からすれば、娯楽に過ぎない。だけれども、言葉では理解できない、何かがある。

数学はじめ、物理と化学と生物がリンクするのは当たり前かもしれないが、さらに言語と音楽やその他この世に存在するあらゆる学問は全てアルゴリズム的に関連し、しかし論理的なコードだけではどうやら完全性を損なう。この世には言葉や数値では理解できない、もっと根源的な何かがある。

私は、夢とか希望とか、叶わない幻想を望む割には、実際には魔性とか魔力といった陰なる要素にとりつかれているのかもしれない。

人は根源的には、欲した幻想を、目に映った仮想現実を、本物に変えて来たのかも知れない。魔法だ。しかし、魔力の支配者が唯一人の時は、全てが思惑通りになったのかもしれないが、私達が物心ついた時には、意識の数は無数にあった。そこで、神は魔力を封印し、科学によって人々を支配したのであろう。現代は、科学という2番目の幻想に支配された世界であるが、根源の魔法というか、精神世界が復活しかけているのかもしれない。が、まだ序章であるから、一般には認められていない。再認されていない。

いや、私達は、自らの意志で、現実に自分を拘束していると言った方が正しいのかもしれない。しかし、何が現実であろうか。戦争や災害は本当に現実なのであろうか?

宇宙における地球の座標は、時として不安定となり、ワープする。素粒子の移動速度は、物理的法則に支配され、加速度も自然の原理に支配されているのが常だが、時として、科学は崩壊する。

宇宙人の存在というのは否定も肯定もできず、また、我々のDNAはもはや純粋な「ヒト」ではなく、様々な動植物や地球外生命体が内在しているのかもしれない。一つは戦時中や医療における遺伝子操作、もう一つは霊だ。どちらも隠されているが、私達は認めたくはない真実を認めざる負えない時が来たのではないだろうか。先祖は子を思って騙し続けて来たのだが、と同時に、偉大な彼らは私達が自ら気付く様にと、長い年月をかけて私達を陰ながら見守ってきてくれた。だが、あえて言葉にはしない。彼らも、私達も。もし、言葉にするのであれば、独り言ではなく、直接語りかけるべきであろう。

21世紀に突入し、世界は、地球は、限界に挑戦し、人々は熱狂しては喪失を繰り返してきた。2010年。今年もいつもながら、喜びと悲しみが交錯し、安定する事はない。

地軸は不安定で、逆転を幾度か繰り返したかわからない。今年に限らず、私達が生きている間にも幾度か。

人々は、解析により科学的に真実に気付くよりも早く、直感的に気付いている。

しかし、人々は不変という幻想に未だ囚われている。

変化を求めないには理由がある。

しかし、変化を認める勇気も必要な時がある。

『フェルマーの最終定理』とか、『リーマン予想』の解明という暇つぶしも悪くはない。

破壊的な産業に執着するよりか、価値があるかもしれない。

大人達は日常という生活に追われる悲しい性があるが、若いうちには学問に励むのも大いにありだと思う。そして、今の大人達をぜひとも超越して戴きたい。

未来は、まだまだ続くのだから。。。

≪今日は、ここまで。≫

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