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2010年5月

未来永劫 ~人類同士の攻防~

21世紀は劣化し、22世紀は存在しないかも知れない。

だが、私の予感からすれば、未来は気の遠くなる程、永劫する運命なのであろう。

しかし、未来が存在するのは、なぜであろうか。

現代のテクノロジーをもってすれば、世界は破滅を招いていてもおかしくもない。だが、彼らは、破滅よりも、存在の苦しみを快感に感じたのかも知れない。

意外なのは、存在は暗黒であり、滅亡は白光であるという事である。

しかし、存在する事が善で、滅亡する事が悪だとは断言できない。

だがしかし、あなたが永遠を望むのであれば、人々の意識はそれ相応に応えてくれるだろう。

あなたは、死の一歩手前を、誠意をもって体感した事があるだろうか。

人には2タイプが存在する。いや、全て人には、2つの意識が存在すると言った方が、より適切かもしれない。一つに働く者、もう一つに妨害する者だ。

働くとは、積み重ねて来たものをより発展させる事。過去が失敗であったとしても、過去に何らかの意義を認めている。一方で、妨害とは、その存在を抹消して、0にリセットさせようとする、回帰的或いは現実嫌悪の表れだ。或いは、他者廃絶による自己存続願望(エゴ)の表れかもしれない。

大部分の人間は、現実を肯定も否定もしない。即ち、時として過ちを訂正しながらも、反省し、蓄積された世界に意味を見出し、明日を再現すると同時に絶妙な変化と刺激を求める。しかし、現実を全て否定したい者、即ち環境に適応できないものは、自らの味方でさえも削除し、己だけの存在を肯定し、その他の全ての他者廃絶に快楽を求める。だがしかし、彼らの計算違いは、自らの仕向けた破壊・妨害プログラムが、結局的には己自身への破壊・妨害プログラムとして、忘れた頃に自ずと発動するという、仕組まれた罠である。

身から出た錆とは、この事を言う。

他者から搾取し、自らは貢献しない街。そんな街は沈没し、野生へと帰るであろう。

その前兆は、人々の遺伝プログラムを書き換え始めた。

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人と宇宙起源

君は、自分の街をどれだけ愛しているだろうか。

生まれた街、育った街、学んだ街、働いた街、教えた街、育てた街、休んだ街、…。

宇宙は気付いた頃には空間は半無限に存在し、時間は流れていた。陽子・中性子・陰子(電子)に加え、光子が真空を占め、しかしそれだけでは全てが説明できず、粒子ならずとも液体的な元素の存在も否定できないが、21世紀になった今でも曖昧なままだ。

ここで、宇宙の物理法則を説明する事で、地上で起き得る全自然科学的現象の説明に挑戦する。それは、私達の周辺の自然と人工物のあらゆる現象、即ち『生活』を説明する処に繋がることであろう。

よく、この様な比喩が用いられる。全ては、一つのシンプルな式で再現されるというものだ。例えば、最近の流行とは異なるかも知れないが、いつの時代でも、『聖書』のインパクトは強烈で、なぜならば言葉にせずとも何時も万人の脳裏に焼き付いているという処で、侮れないのである。『禁断の実』と言えば『リンゴ』であるが、即ち『ニュートンの運動方程式』は、あまりに有名すぎて、かえって無と化している。

              ma=F

この単純明瞭な式。しかし、この様なシンプルさは、複雑な何よりも宇宙的だ。

人間は『言語と図形』という中途半端なもので、文明を築いて来た。確かに『形式化』という面で、私達は、自然を改造し、人工的で、複雑で、しかし不自然な都市の生成に、自然破壊を伴いながら成功して来た。現代文明である。

古代文明は、現代的という面で欠けていたのかも知れない。しかし、宇宙との一致、『自然』な『なりふり』という面で、私達よりも大切なものを大切にして来たのかも知れない。

人工物即ち現代社会は、シンプルな式にさらに複雑な条件を無数に加える事で、限定化を行った。本来ある宇宙というこの世界の姿は、シンプルな式に、少々風変わりな初期条件を+した様なものでは無かろうか。だがしかし、やはりそれだけでは全ては説明がつかず、『神』という比喩や『意識』という名の不確定要素は、永遠の『未知』なのかも知れない。

『木』という植物において、あまりに当然過ぎるから人々は語らない。根・幹・枝・葉・果実から成り、全体は『細胞』という要素の集合である事に変わりないが、その組織は別の観点で、導管や繊維、細胞壁、表皮、成分、水分或いは、種子等分類するとキリがない。

宇宙という観点においても、様々な観点から、人間は無数に分類し、無数の法則性を見出す。空間・時間。点と線、面、立体。(0123)。学問はますます細分化され、サービスの多様化も進むように、人々は過去の英知を知るよりも早く、新しいアイデアの発掘に絶えまない。光、電子、原子、分子、物体の各々の法則は全て異なるようで、非常に共通性に支配されている。即ち、根源的な物理法則は、万物に共通であるという事である。

人は肉体を通して、間接的にしか宇宙を体感できない。肉体を通して感知する宇宙原理は、フィルターを通したものだから、歪んでいる。

人は、何を求めて生まれて来たのか。快楽という名の刺激か。それとも無という安堵だろうか。

………

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日本という自然界 ~過去という幻想の真実究明~

私の過去は、一瞬の幻の如く経過して、現在は相変わらず、空しい。

生まれて、歩いて、走って、動き回り、泳ぎ、書物をあさり、モノを作った。

人との交わりは、歳を経れば経るほど淡白なものとなるが、幼い頃の思い出と絆は、たとえ距離が遠くなろうとも、どんなに忘れてしまおうともがいても、斬るに斬れない。

人は生物学的には、精子と卵子という二つの細胞から始まるが、この二つの細胞に含まれる二組のDNAには、全宇宙的なモノが含まれているのだろうか。それとも、DNAとは、宇宙起源、即ち宇宙の設計図そのものであろうか。

何はともあれ、生まれた時には既に五体という肉体を伴い、不安定ではあるが五感という精神が徐々に我がものとなる。

気付けば、視覚は景色や部屋という無機質ではあるが生気の名残を伴うものを認識し、人と動物と植物という意識を伴う生命体を無意識下の内に特別なものとして、第六感を伴いながら認識していた。そして聴覚は、言語という論理を、両親はじめ身近な人間、そして草木や虫、鳥、魚、動物或いは星々から、音声ならずとも波動を感じ取り、音楽やリズムといった感性をも、心の中に宿した。

時代によって、初めて体験するものは、共通するものもあれば異なるものもあるのだろう。モノの乏しい時代は貧しい、豊富な時代は豊かと、揶揄されるが、80年代という比較的豊かな時代に生まれ、生まれた当時よりさらに物質的には豊かになった現代を生きる私は、歳を経れば経るほど、「大切なものが失われていく」という喪失感に苛まれる。というのも、目の前の環境がガラリと変化していくのを目前とする時には、既にある地球全体での絶望的な変化を、何気なく感じ取っているからかもしれない。全てが終息と考えているわけではない。希望さえも無いわけではない。だがしかし、「戦争」という孤独とはまた少し異なるが、それ以上に虚空な「喪失感」という、その負のエネルギーがあまりに強烈過ぎて、実態としては表現されにくい、しかし確実に現実に多大な影響を与えている「仮想が実体化した現実=人の欲望」の影響を真摯に受け付けざるを得ない状況に追い込まれた。

幼い頃、初めて目にしたものは無数にあり、再現しがたい。しかし、無意識という壁を乗り越え、意識と無意識という縞を経て、気付いた頃にはほぼ完全なる意識体となっているのだが、この「縞」の年月に体験したものというのは、人生の縮図であり、基盤であるのかもしれない。例えば、歩いたり、自転車に乗って、目に映る街並みは人の動きと時間の流れに伴い、充満する空気と共に変化し、商店街は活気と優しさに溢れるのが、私にとっての元来の懐かしい姿だ。春には花が咲き乱れそよ風が吹き、夏には蝉が鳴き潮風を受け止め、秋は肌寒く葉は散りゆく。冬は試練だが、雪が降り積もった後の日射しは意外と暖かな希望に満ちている。

近年、伝統は変わりつつあるのかもしれない。単刀直入に言えば、懐かしき頃、私が幼かった頃は、特別な盛り上がりを除いては穏やかであったのだが、現在は、四六時中極端にダイナミックに成りすぎているのかもしれない。即ち、一時的であれ、時間の流れが高速になりつつあると言った方が、わかりやすいかもしれない。

かつての日本人は働きすぎた。一方で、現在の日本人は、忙しいと言えども、決して、働きすぎとは言い難い。働くのと、忙しいのとでは全然異なる。仕事は緻密で複雑で、休息も認められず、24時間稼働…。しかしやるべき事は予め九割九分九厘決まっているはずなのだが、残りの一厘が全てを崩壊し、人々はノイローゼに陥る。しかし、今の日本のこの状況は、世界的・国際的に影響されたものであり、必ずしも日本独特のものではないというところが、その「異常事態」をあらわにしている。

『昔が懐かしいって、どういう意味なのだろう?

≪私は、いつもこの事実が気になって仕方ない。≫

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有用と無用

人間は、そもそも動物の一種であるから、言葉による会話はともかくとして、それ以外は全て他の野生動物と同様に完全に自然界に溶け込んで生活する事はできるのであろうか。真実はどうであるかわからないが、直感的な答えからすれば、おそらく、物理的には可能であるが、そこには自然淘汰があり、ルールを守らない者が居れば、バランスは崩れ、弱肉強食的な野生社会となる。では、最低限、完璧とまではいかないにしても、ある程度の法律的なものは、どんな世界でも必要と考えられる。では、残りは、原始人の様に衣服や道具といったものも、自然界に存在する様なありきたりのもの程度で、社会が成り立つかという問題である。そこには、技術やテクノロジーといったものは存在しない。この事に関して言えば、技術が完全に無い、手先を使わないようである、即ち動植物を手や口で捕獲するだけの様な生活では、他の野生生物との間の生存競争に非常に弱い。では、最低限、先住民族的な、伝統的技術は必要であり、逆に言えば、伝統的技術があれば、人間は非常に人間らしく存在できる。だがしかし、現代の流行は、ある意味宇宙人的とも言える様な、科学技術文明、ハイテク文明である。当然の事ならが、そこには何らかの根拠ある理由があるはずだ。では、様々なリスクを負いながらも、それでも現代文明は、ハイテクを求めて来た。必要な技術・知識が頂点に達しても、それを『維持』するのは容易ではないにも関わらずだ。

理由は様々であろう。例えば、より「快適」で「楽」であるという事も重要な要素だ。仕事量を減らす、食糧確保の安定性、デザイン・スタイル的な欲求を満たすという面でも、ハイテクは必要とされる。また、「衛生」においても、重要な要素がある。ペストの大流行は、歴史的な大事件であるが、例えば、日本の平安時代的な文明であれば、そこまで大流行していなかった可能性が高い。ペストの原因は、技術的なところよりも、文化的なところ、即ち慣習や法的なところが大きい。だがしかし、原因の最大要素はそれだけではない。「人口」という要素が重要なキーとなっている。当時は確か、ある意味「人口爆発の始まり」と言ってもよい様な時代ではなかったろうか。おそらく、テクノロジーがどんなに発達しても、許容できる人口には限度はあるだろう。だが、テクノロジーは収容できる人口を飛躍的に大きくできる可能性を秘めている。それが、例え、「一時的」なものであったとしてもだ。そして、衛生においても、技術を上手に駆使すれば、生活圏の衛生・清潔度を高く保つ事ができる。この様に、ハイテクがもてはやされるには、確かな理由がある。では、一見いいことずくめのハイテクを導入した現代社会が、どうも安定しないのは何故だろうか。一つに、技術の程度が低いというわけでは、決してない。ではなぜか。「使い方」がどうも、間違っているとは言わないが、理想的とはややほど遠いのであろう。これは、法律、慣習、経済、宗教等といった、国のプロジェクトの進め方から始まり、強いては日々の個人の日常的な生活の仕方まで関わっている。理想と現実は違うとは、よく言う事であるが、では一番問題なのは、確実にこの方法は理不尽であると確信しているにも関わらず、その行動を正さず、続ける行為である。この様な、「理不尽」もまた、理想と現実のたとえと同様、原因が自他のいずれにあるに関わらず、起き得る可能性は十分にあるのだが、ではもしもこの社会が、根源的に「理不尽なサイクル」から抜け出せないのでいるならば、そこを脱出する策は無いのであろうか。それとも、理不尽な方がかえって都合が良いと言う様な「摂理」でもあるというのだろうか。

人の欲望にはキリがない。そして、技術・知識といった文明的な欲望もまた欲望である事には変わりなく、20世紀はそれをかなり現実のものとしてきた。そこで、表面化されたテクノロジーと、表面化されないが明らかに実態として存在する、隠されたテクノロジーとがある。いずれの技術にせよ、テクノロジーの使用に当たっては、「モラル」が存在する。モラル、道徳においても、何らかの規則や法則が存在するのが一般だ。しかし、その規則や法則は絶対的なものとは限らない。モラルの価値観は、人によって、時代によって、或いは時と場合によって異なるのである。だがしかし、明らかに不自然なモラル違反と呼ぶにふさわしいものには、やはり法則性があるようだ。「不平等」である。

現代日本は、まさしくモラル違反社会そのものではないだろうか。

しかし、それでも、昔の人は、それでも「帳尻は合う」というのだが…。

ブレイン・マシン・インタフェース(BMI)は存在するらしい。また、エシュロンの存在も、時機に教科書に載る時が来るかもしれない。Wikipediaでも正式に存在を認めているようだから、嘘ではないだろう。BMIに関して言えば、何より、脳波スキャン技術は確立しているし、後はその脳波を解析し、言語化・イメージ化できればよいのであるのだから…。(しかし、それをさらに悪用して、信号を送り込み、マインドコントロールができるとか、できないとか…。脳波を操る事は、体の自由を奪うのとは違うと考えるかもしれない。だが、あなたは肢体を縛られ拘束された時、怒るだろう。ロープをナイフで切れば済むが、煩わしいし、不可能な時もある。「思考の自由を奪う」とは、そういう事である。)

では、そのような技術が「存在」する事自体に、異議は無い。だがしかし、モラルを考えたときであるのだが…。(法整備はやや時代遅れだ。或いは法が遥か昔に存在していても、市民は理解していない。そして、後から気付く。)

現代のテクノロジーは確かに素晴らしい。しかし、中途半端な大人は、「偶然の産物」を、生きる為の道具ではなく、おもちゃと勘違いしているようだ。

どんなに複雑な論理であれ、設計図であれ、そこには自然界の法則があるから存在するのである。その「アイデア」には確かに努力も必要だが、それだけではどうにもならず、そういう意味で、人類は運がついている。

≪あなたは、大切に引き出しに保管している、他人のノートを、むやみやたらに覗き見するであろうか。。。引き出しの鍵を盗んでまで。。。≫

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私的考察

私は、失敗〈ミス〉を繰り返して来た。後悔の念である。しかし、その失敗は、考え直してみれば、実に些細な事。実にどうでもいい事であった。言ってみれば、お笑いに過ぎない。つまらないものに無駄な時間を割き過ぎた。だがしかし、私を本当の意味で悩ませたものは、もっと奥深く重いものである。

人一人、存在しない方が、むしろ平和。そういう意味で、私は純粋な「死」、自然の法則に従った安らかなる死は、むしろ聖なる正と考える。仏教徒は、それを「解脱」と呼ぶ。

しかし、一方で、「生」には「死」に勝るとも劣らない意義があると、直感が応える。万人は、世界に平和をもたらす事も可能だ。平和は、恨みを抹消し、苦悩する霊を天国へと導く。苦労、苦難はあるけれども、それは地獄ではない。戦争は恨みを増大するが、その地獄をも抹消し、全人類を昇天させるには、人一人の影響力が多大なる力を発揮する。だが、個人的な意識は、天界においても存在し、先を見据えた仏は、おそらくは、「焦るな」と忠告する事であろう。私達は、肉体を伴い存在している。この個体として社会的に認められた一肉体は、個人の所有物かもしれないが、だがしかし、万人、否、全宇宙的に共有された「借物」であるという事を、自身は悟るべきなのだと、度々、考えを改め直す。

ある国が、非常に穏やかに成った時、またある国は終わりを告げようとしている可能性がある。同じ地球の中で、なぜ「差」が生まれるのであろうか。発展した国というのは、時代の変遷に伴い、興亡を繰り返してきたものだ。この「興亡」が存在し、絶対的な「安定」というのはほとんど存在しないに等しい。なぜか。

国の原動力は人である。そして、自らの生命体としての根源である「霊魂」であるが、これは本当に自身と完全に一体化しているのだろうか。自分の「意識」、「思考」、「感情」の所属は、完璧に己自身のものであろうか。それとも誰かが植え付けたもの、即ち自身から湧いたものではなく、既に仕組まれたものであろうか。哲学は、人間の根源を常に求めて来た。未だ、答えは得られていない。絶対的な答えが得られたと確信した次の瞬間、その確信に対する自信は一気に原点へと喪失される。ただ、この事から気付く事は、人間は、常に同じ疑問を繰り返しては、進み、そしてまた零〈ゼロ〉から出発し直すのだが、この出発点がいつも微妙に異なる様である。そして、いつも目的地に到達したと思った瞬間、また新たなる出発点に戻っているのである。「解脱」できないとすれば、ループする運命なのかもしれない。そして、一度解脱したと信じても、再びまた、この無限ループに迷い込む可能性は十分過ぎるほどある。

私の「無意識」は、一度「解脱」に挑戦した。しかし、結果は、おそらくは、無数に存在するもう一つの無限ループに再び迷い込むというものであった。

それともう一つ。この自然の法則に支配された世界から解脱するには、自身の意識だけでは不可能であり、逆に己以外の全ての意識がそれを望んだのであれば、それは実現される可能性が高いという事である。

≪時々、おせっかいが同じ所に現れ、目的も無く、同じ事を繰り返す。人が思考を完全に停止した時、自動機械となり、やがて停止し、消滅する。≫

妨害・破壊プログラムは何の為に存在するのか。自律した者は、自らの意志で現れ、消える。それを狂わせるプログラムの存在意義は、一体何なのであろうか。おそらくは、他者の存在意義を認めない者、自身に対する「執着」のなにものでもない。

≪目的を失って、徘徊しているのであれば、目的が見つかるまでそうすればよい。しかし、最後まで目的が見つからなかった時、存在の意義はもはや無い。≫

目的とは、必ずしも「貢献」が全てではない。なぜならば、本来、全て人は、虎の様に、一人で独立して生きる事が可能であるからだ。もっとも、それが理想的であるかどうかは、別問題である。また、「量」を追及したところで、それは「一時の幻想」に過ぎない。カタチあるもの、それは宇宙の究極のエネルギーからすれば、全て些細なものである。

≪全てを消したいのであれば、自身が消えればよい。それで全ては終わる。≫

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形式知と暗黙知

知識と一言で言っても、幾らかに分類がされ得る。

形式知は、言葉を別の言葉で置き換えた様な知識。

では、暗黙知は、言葉だけでは表現が困難な様な知識。

例えば、人体の組織はある程度までは形式知で表現可能だろうが、完全には言葉だけでは再現できない。そこでイメージであったり、感覚的なものであったりといった情報も伝える必要があり、時としてそこには経験により得られる暗黙の了解というものも存在する。

文系、理系に関わらず、この暗黙知があるとないとでは、話の『理解』において、深みや本質というものが、全然異なってくるはずだ。特に、理系的思考においても、言葉で再現が困難なものは多い。例えば、「カメラ」というたった一言で、デザイン・機能に限らず、仕組みというものを『どこまで』想起できるかによって、成果、その人と成りが、全く異なってくる。

年配の人の何気ない会話に重みを感じる事が多いのも、こういうところから来ているのだろう。

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波の話

全て運動するもの。そこには大抵「波動」が存在する。その波は、多くの場合、無数の単調波が重なった様なものであると説明される。即ち、電話の電話番号が、各数字毎に一定の波があり、それを解析する事で電話番号を特定する仕組みと同様、「波」を分析する事によって、運動、状態、形状等が推測される。コウモリは超音波で障害物を認識する事で、ぶつかることなく飛んでいる。

波の解析はどう行われるか。センサで読み取った波形をPCに取り組むと、時刻tにおける電圧Vという無数の点が存在する。一般的にこの無数の点は連続性のある波形となっているが、時として、値が「飛ぶ」場合もある。いずれにせよ、単純に考えた場合、ある波形の「一部分」において、複数のSin(またはCos)波を合成し、一致するかどうか判断すれば、ある程度のところまで推定できる。しかし、この方法では、サーチに非常に時間がかかりそうである。そういった事を考えていくと、現実的に、「解析」は単純ではない。

フィルタをかける時のリスクは、波形を概略化する事で、目立たないが極めて重要な要素を排除してしまい、真実に気付かなくなるところにある。しかし、フィルタをかける事によって、大局を掴む事はできる。大局が見えなければ、何も見えてこない。ところが、大局以外の目立たない一つの要素が、大局を全て変える可能性も、少なからずある。

あらゆる物体の運動は、波動に置き換えられると述べた。例えば、日常を観察した場合、電車に乗っていると、線路を走る定期的な「ガタンゴトン」と揺れる音。吊り皮や広告の揺れ。窓ガラスの振動。(トンネルに入った時は圧力波で、窓が大きくゆれるが…。)それら全ては、波動性をもっている。電車に限らずとも、ビルやエレベータの揺れであったり、エアコンによる室内の空気の変化、自動車、飛行機、船のエンジンのピストン運動、電子回路の電流による磁界の変化等である。

人は、波動を、「音」や「振動」で感知できる。もし、音や振動に異常があるとしたら、何かに異変があるという事である。ここで、日常世界で異変があるとしたら、二つある。一つは、生命体という「自然」。もう一つは、「人工物」である。自然界はともかくとして、人の造りしものである人工物に異変があるとすれば、原因は、様々だが、構造的なもの、化学的なもの、電気電子的なもの、アルゴリズム的なもの、そして、自然界が影響したもの、人為的なもの等が考えられる。

モノが「複雑」になるとは、高性能になると同時に、故障が起きるリスクも大きくなるという事である。バランスというのは非常に難しい。

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天国と地獄

こちら側の世界とあちら側の世界があると仮定する。

こちら側とあちら側とでは、何らかの接点があり、関連性がある様である。

おそらくは、あちら側には、こちら側の死者の霊魂や、自身の分霊が存在する様である。「自身の分霊」とは、厳密には、おそらく睡眠中等に自身から一部または全部が分離した霊魂である。即ち、こちら側での精神状態というのは、あちら側に多大な影響を与え、その逆もあるという事である。

残念ながら、ほとんどの人間は、こちら側の自身を制するので「精一杯」であるはずだ。

 幽体離脱は、様々な意味で簡単ではない。そして、非常に危険性を伴うものである事に変わりない。だから、若いうちからの幽体離脱には特に要注意である。

幽体離脱の世界は、まさしく「自由」の世界であるかもしれないが、そこには「暗黙のルール」がある様である。こちら側の世界で生まれた時、自身は手探りで生きて来た。そして、あちら側に行った時も同様である。意識を集中しないと、他人に操られる可能性さえある。

天国と地獄。この両者にはっきりとした境界はない。もし、今自分が地獄に居るのであるならば、自分を磨くチャンスと思うしかない。もし天界から地獄の、「分霊」ではなく「分身」を操作していたのであるならば、特に悪意ある操作を「意図的」にしていたのであるならば、例え地獄の人間でも黙ってはいない。

ここで気付いた事。「自分」という言葉には「自らを分ける」という意味がある。自分というのは、自らのさらに一部でしかないようである。そして、「自ら」にも、深い意味がある様だ。

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観察者と労働者がいて、労働者というのは、観察者の思い通りには動いてくれないものである。労働者は観察者の言動・指示に「意義」があると思い考えた時、素直になるだろうが、明らかに悪意を感じた時、反抗するのは当然である。逆に手助けを得られるのは、その人の仕事に意義があり、また手助けをする人に多少の「ゆとり」があるからだ。

そもそも労働には、どんな意義があるのだろうか。単純に生きる為? 実際に、目的は何であれ、「生きる」事それ自体目的であれば、人はその「基本手段」として働くだろう。故に、働く事を阻止するとは、生きる事を阻止する事、につながる。

仕事は共同作業が少なくない。しかし、結局のところ、共同で働いたと言っても、人には一人一人、「役割」があり、むしろ、理由もなく、人と完全に同じ動きをしていては意味がない。(もちろん、全員が同じ動きをする必要がある時もまた、多々ある。)真の意味での「協同」とは人と同じ事をするのではなく、自分にしかできない役目を果たす事ではないだろうか。

人は、矛盾した世界に居る時、自分が適していない環境に存在する時、無意識的に不平不満が増えるのかもしれない。もし、自分が「批判された」事を素直に認める時、そこには何らかの原因があり、「身に覚えがある」という事である。それでも理にかなっていないと感じた時、少なくともどちらか一方が相手を誤解しているのである。

人の考えを理解していると思った時、それはとんでもない勘違いだ。仮にテレパシーが存在しても、それが全て真とは限らない。ただ、いつの時代でも、本当に意思を伝えたい人には、時間に遅れがあったとしてもやがて伝わり、無関心な人間同士では、いつまで経っても思いは伝わらない。唯一つ、「気付かない」と「無関心」とではだいぶ異なる。

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さて、この世の中には、相当ひどい仕打ちを受けている人が、結構、否、相当数居る様である。

もし、その人が何らかのミスをして、責められるのであれば、責める人間、民衆に責任はないと断言できるだろうか。単純なミスが積み重なれば大事故につながる恐れがある。単純なミスは誰にでもある事で、重大なミスというのも、結局のところ、単純なミス(ケアレスミス)と大差はない。でもしかし、重度はともあれ、確かに全て行動の原因の大部分は本人に責任があるのかも知れないが、相当な失敗には、相当の原因・理由があるものだ。

私は、日本の歴史が長らく続いて来られたのは、一見日本は中央集権国家の様で、実は地方分権国家の精神を非常に大切にしている処にあると思う。

ある人曰く、ある人を窮地に追い込んだのは、偶然でも運命でもなく、愚民の怠慢だ。努力、苦しみ、悲しみ、そして苦悩を知らない人間が、優等生を殺すのは、「国王」と「神」が絶対に許さない。そして、民衆にもし常識があるのであれば、最低でも、その人を決して責めたりはしない。そして、選ばれし者の代表者、即ち『現実世界の国王達』と『超常世界の神々』は、一致団結し、我を無に帰し、人民の再生を、誠意をもって、厳かに行う。

しかし、国王と神をも凌ぐ者の存在は、私とて未だ確信できずにいる。

≪生命と意識の根源は、何であろうか。アダムとイヴが存在したのであれば、その原動は何であったのか。≫

≪『夢』・『幻』は、集合知か、それとも単独知か。その答えは、その人自身しか知らないのかも知れない。≫

人生は、『美しい』。

それが、本望なのだが、主は、弟子以上に、思慮深く、かえってそれが禍の元凶となり、でもしかし、それでもあえて、直線ではなく、曲線を描いた。師曰く、ある時は実直に、又ある時は柔軟に。…。

私は、元来、真っ直ぐで、向う見ずな人間だ。それを、誰かが、真っ先に、正してくれた。

 ≪起源は、益々、複雑怪奇となっている。≫

 楽あれば苦あり。私は、まだ世界を旅していない。日本人に生まれたには、意味がある。

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若くして老いるというのは、幻想で、真に老衰を感じる人間は、実世界にはほとんど存在し得ない。

それにしても、『ふざける』にも程がある。余程、真面目な人間が居たからであろう。

『文武両道』

しかし、この世は、それ以上に遥かに複雑怪奇であり、しかしそれを証明するのは、容易ではないらしい。

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