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私的考察

私は、失敗〈ミス〉を繰り返して来た。後悔の念である。しかし、その失敗は、考え直してみれば、実に些細な事。実にどうでもいい事であった。言ってみれば、お笑いに過ぎない。つまらないものに無駄な時間を割き過ぎた。だがしかし、私を本当の意味で悩ませたものは、もっと奥深く重いものである。

人一人、存在しない方が、むしろ平和。そういう意味で、私は純粋な「死」、自然の法則に従った安らかなる死は、むしろ聖なる正と考える。仏教徒は、それを「解脱」と呼ぶ。

しかし、一方で、「生」には「死」に勝るとも劣らない意義があると、直感が応える。万人は、世界に平和をもたらす事も可能だ。平和は、恨みを抹消し、苦悩する霊を天国へと導く。苦労、苦難はあるけれども、それは地獄ではない。戦争は恨みを増大するが、その地獄をも抹消し、全人類を昇天させるには、人一人の影響力が多大なる力を発揮する。だが、個人的な意識は、天界においても存在し、先を見据えた仏は、おそらくは、「焦るな」と忠告する事であろう。私達は、肉体を伴い存在している。この個体として社会的に認められた一肉体は、個人の所有物かもしれないが、だがしかし、万人、否、全宇宙的に共有された「借物」であるという事を、自身は悟るべきなのだと、度々、考えを改め直す。

ある国が、非常に穏やかに成った時、またある国は終わりを告げようとしている可能性がある。同じ地球の中で、なぜ「差」が生まれるのであろうか。発展した国というのは、時代の変遷に伴い、興亡を繰り返してきたものだ。この「興亡」が存在し、絶対的な「安定」というのはほとんど存在しないに等しい。なぜか。

国の原動力は人である。そして、自らの生命体としての根源である「霊魂」であるが、これは本当に自身と完全に一体化しているのだろうか。自分の「意識」、「思考」、「感情」の所属は、完璧に己自身のものであろうか。それとも誰かが植え付けたもの、即ち自身から湧いたものではなく、既に仕組まれたものであろうか。哲学は、人間の根源を常に求めて来た。未だ、答えは得られていない。絶対的な答えが得られたと確信した次の瞬間、その確信に対する自信は一気に原点へと喪失される。ただ、この事から気付く事は、人間は、常に同じ疑問を繰り返しては、進み、そしてまた零〈ゼロ〉から出発し直すのだが、この出発点がいつも微妙に異なる様である。そして、いつも目的地に到達したと思った瞬間、また新たなる出発点に戻っているのである。「解脱」できないとすれば、ループする運命なのかもしれない。そして、一度解脱したと信じても、再びまた、この無限ループに迷い込む可能性は十分過ぎるほどある。

私の「無意識」は、一度「解脱」に挑戦した。しかし、結果は、おそらくは、無数に存在するもう一つの無限ループに再び迷い込むというものであった。

それともう一つ。この自然の法則に支配された世界から解脱するには、自身の意識だけでは不可能であり、逆に己以外の全ての意識がそれを望んだのであれば、それは実現される可能性が高いという事である。

≪時々、おせっかいが同じ所に現れ、目的も無く、同じ事を繰り返す。人が思考を完全に停止した時、自動機械となり、やがて停止し、消滅する。≫

妨害・破壊プログラムは何の為に存在するのか。自律した者は、自らの意志で現れ、消える。それを狂わせるプログラムの存在意義は、一体何なのであろうか。おそらくは、他者の存在意義を認めない者、自身に対する「執着」のなにものでもない。

≪目的を失って、徘徊しているのであれば、目的が見つかるまでそうすればよい。しかし、最後まで目的が見つからなかった時、存在の意義はもはや無い。≫

目的とは、必ずしも「貢献」が全てではない。なぜならば、本来、全て人は、虎の様に、一人で独立して生きる事が可能であるからだ。もっとも、それが理想的であるかどうかは、別問題である。また、「量」を追及したところで、それは「一時の幻想」に過ぎない。カタチあるもの、それは宇宙の究極のエネルギーからすれば、全て些細なものである。

≪全てを消したいのであれば、自身が消えればよい。それで全ては終わる。≫

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