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日本という自然界 ~過去という幻想の真実究明~

私の過去は、一瞬の幻の如く経過して、現在は相変わらず、空しい。

生まれて、歩いて、走って、動き回り、泳ぎ、書物をあさり、モノを作った。

人との交わりは、歳を経れば経るほど淡白なものとなるが、幼い頃の思い出と絆は、たとえ距離が遠くなろうとも、どんなに忘れてしまおうともがいても、斬るに斬れない。

人は生物学的には、精子と卵子という二つの細胞から始まるが、この二つの細胞に含まれる二組のDNAには、全宇宙的なモノが含まれているのだろうか。それとも、DNAとは、宇宙起源、即ち宇宙の設計図そのものであろうか。

何はともあれ、生まれた時には既に五体という肉体を伴い、不安定ではあるが五感という精神が徐々に我がものとなる。

気付けば、視覚は景色や部屋という無機質ではあるが生気の名残を伴うものを認識し、人と動物と植物という意識を伴う生命体を無意識下の内に特別なものとして、第六感を伴いながら認識していた。そして聴覚は、言語という論理を、両親はじめ身近な人間、そして草木や虫、鳥、魚、動物或いは星々から、音声ならずとも波動を感じ取り、音楽やリズムといった感性をも、心の中に宿した。

時代によって、初めて体験するものは、共通するものもあれば異なるものもあるのだろう。モノの乏しい時代は貧しい、豊富な時代は豊かと、揶揄されるが、80年代という比較的豊かな時代に生まれ、生まれた当時よりさらに物質的には豊かになった現代を生きる私は、歳を経れば経るほど、「大切なものが失われていく」という喪失感に苛まれる。というのも、目の前の環境がガラリと変化していくのを目前とする時には、既にある地球全体での絶望的な変化を、何気なく感じ取っているからかもしれない。全てが終息と考えているわけではない。希望さえも無いわけではない。だがしかし、「戦争」という孤独とはまた少し異なるが、それ以上に虚空な「喪失感」という、その負のエネルギーがあまりに強烈過ぎて、実態としては表現されにくい、しかし確実に現実に多大な影響を与えている「仮想が実体化した現実=人の欲望」の影響を真摯に受け付けざるを得ない状況に追い込まれた。

幼い頃、初めて目にしたものは無数にあり、再現しがたい。しかし、無意識という壁を乗り越え、意識と無意識という縞を経て、気付いた頃にはほぼ完全なる意識体となっているのだが、この「縞」の年月に体験したものというのは、人生の縮図であり、基盤であるのかもしれない。例えば、歩いたり、自転車に乗って、目に映る街並みは人の動きと時間の流れに伴い、充満する空気と共に変化し、商店街は活気と優しさに溢れるのが、私にとっての元来の懐かしい姿だ。春には花が咲き乱れそよ風が吹き、夏には蝉が鳴き潮風を受け止め、秋は肌寒く葉は散りゆく。冬は試練だが、雪が降り積もった後の日射しは意外と暖かな希望に満ちている。

近年、伝統は変わりつつあるのかもしれない。単刀直入に言えば、懐かしき頃、私が幼かった頃は、特別な盛り上がりを除いては穏やかであったのだが、現在は、四六時中極端にダイナミックに成りすぎているのかもしれない。即ち、一時的であれ、時間の流れが高速になりつつあると言った方が、わかりやすいかもしれない。

かつての日本人は働きすぎた。一方で、現在の日本人は、忙しいと言えども、決して、働きすぎとは言い難い。働くのと、忙しいのとでは全然異なる。仕事は緻密で複雑で、休息も認められず、24時間稼働…。しかしやるべき事は予め九割九分九厘決まっているはずなのだが、残りの一厘が全てを崩壊し、人々はノイローゼに陥る。しかし、今の日本のこの状況は、世界的・国際的に影響されたものであり、必ずしも日本独特のものではないというところが、その「異常事態」をあらわにしている。

『昔が懐かしいって、どういう意味なのだろう?

≪私は、いつもこの事実が気になって仕方ない。≫

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